見えない言葉を聞く
その夜は、みんなで食卓を囲む最後の日だった。台所からはいつものように小言が聞こえる。「味見やで!全部食べたらアカンで」とか、「包丁そんな持ち方したら指きる!」とか。返す言葉もいつもと同じ。短く素っ気ない。「わかってる」。「心配しすぎ」。
大阪市内のとある古民家で、週に数回開かれる『いっしょにごはん!食べナイト?』。長く地域の子ども支援を続けてきたNPO法人・西淀川子どもセンターが、夜の居場所づくりに特化し、3年前から始めた事業だ。
登録した小・中学生と、10代から70代までの「おとな」たちが一緒に夕どきを過ごす。宿題をする子、ギターを教わる子、とりとめなくおしゃべりを続ける子もいる。子どもシェフの奇想天外ぶりはハラハラの連続で、口を出したくて仕方ない若手スタッフを、さらに上の世代がにこやかに見守る。年60回のプログラムが終わる頃には、すっかり家族の雰囲気だ。
ここ数年、全国的にもこうした食事提供を伴う支援(子ども食堂など)が広がってきている。背景にあるのは、子どもを取り巻く経済的・社会的な生活格差、いわゆる「子どもの貧困」だ。ひとりの食事が続けば、おとなだって寂しくなる。食べ盛りの子ならおかわりもしたいだろう。大きなテーブルに、お皿やお箸をたくさん並べるのも、ちょっとしたイベントだ。「食べる」ことを通じ、子どもたちのさまざまな顔が見えてくる。
しかし、だ。そこで見せた顔を、どうやって見守り続けるかが、本当の課題だと、『食べナイト』を主催するNPOの代表・西川日奈子さんは言う。ここに来る子どもたちの多くは、自分の気持ちを表現するのが苦手だ。「いただきます」や「ごちそうさま」の言葉でさえ、彼らの日常には存在しないこともある。「わからん」「どっちでもいい」。相手を突き放すような言葉の中に、ありったけの思いを込める。機関銃のように話し続ける子も、「じゃあどうしたい?」と、自身の感情を聞かれた途端に黙り込む。食卓は、あくまで子どもが思いを吐き出すきっかけだ。
ふと、10年近く前の会話を思い出す。子どもセンターの学習支援に通う女の子を取材していたときのことだ。話し上手なのだが、本心をすっと隠すときがあり、次の一歩が踏み込めない。私は西川さんに言った。「手応えがないとしんどいですね」。すると「追いかけたらアカンのです。安心したら子どもは勝手に喋りだします。そこが勝負」と笑った。
いつもように夕食が終わると、いつもと違う時間がやってきた。『食べナイト』に参加した子どもたちを手作りの証書で送る「修了式」だ。中学生の少女の番で、読み上げていたスタッフYさんが感極まり泣きだした。ボランティアも一斉にもらい泣き。当の本人は
、少し困った顔をした後、そっとYさんの涙を拭った。少女の言葉がそこにあった。
2016年6月8日(水曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
大阪市内のとある古民家で、週に数回開かれる『いっしょにごはん!食べナイト?』。長く地域の子ども支援を続けてきたNPO法人・西淀川子どもセンターが、夜の居場所づくりに特化し、3年前から始めた事業だ。
登録した小・中学生と、10代から70代までの「おとな」たちが一緒に夕どきを過ごす。宿題をする子、ギターを教わる子、とりとめなくおしゃべりを続ける子もいる。子どもシェフの奇想天外ぶりはハラハラの連続で、口を出したくて仕方ない若手スタッフを、さらに上の世代がにこやかに見守る。年60回のプログラムが終わる頃には、すっかり家族の雰囲気だ。
ここ数年、全国的にもこうした食事提供を伴う支援(子ども食堂など)が広がってきている。背景にあるのは、子どもを取り巻く経済的・社会的な生活格差、いわゆる「子どもの貧困」だ。ひとりの食事が続けば、おとなだって寂しくなる。食べ盛りの子ならおかわりもしたいだろう。大きなテーブルに、お皿やお箸をたくさん並べるのも、ちょっとしたイベントだ。「食べる」ことを通じ、子どもたちのさまざまな顔が見えてくる。
しかし、だ。そこで見せた顔を、どうやって見守り続けるかが、本当の課題だと、『食べナイト』を主催するNPOの代表・西川日奈子さんは言う。ここに来る子どもたちの多くは、自分の気持ちを表現するのが苦手だ。「いただきます」や「ごちそうさま」の言葉でさえ、彼らの日常には存在しないこともある。「わからん」「どっちでもいい」。相手を突き放すような言葉の中に、ありったけの思いを込める。機関銃のように話し続ける子も、「じゃあどうしたい?」と、自身の感情を聞かれた途端に黙り込む。食卓は、あくまで子どもが思いを吐き出すきっかけだ。
ふと、10年近く前の会話を思い出す。子どもセンターの学習支援に通う女の子を取材していたときのことだ。話し上手なのだが、本心をすっと隠すときがあり、次の一歩が踏み込めない。私は西川さんに言った。「手応えがないとしんどいですね」。すると「追いかけたらアカンのです。安心したら子どもは勝手に喋りだします。そこが勝負」と笑った。
いつもように夕食が終わると、いつもと違う時間がやってきた。『食べナイト』に参加した子どもたちを手作りの証書で送る「修了式」だ。中学生の少女の番で、読み上げていたスタッフYさんが感極まり泣きだした。ボランティアも一斉にもらい泣き。当の本人は
、少し困った顔をした後、そっとYさんの涙を拭った。少女の言葉がそこにあった。
2016年6月8日(水曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
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お母さん、と呼ばないで?
学校で、先生のことをつい「お母さん」と呼んでしまった経験はありませんか?子どものころは、間違えた恥ずかしさから、その後やけにそっけない態度を取ったりもしたのですが、今になってみると、子どもながらに距離の近さを感じていたのだと思います。
3年前、私は妊婦さんたちの取材をしていました。出産に至って初めて病院へ来る、あるいは、妊婦健診をほとんど受けないまま出産に臨む女性たち。専門的には未受診妊婦と称されますが、「飛び込み出産」と言った方が馴染みはあるかもしれません。腹痛で救急搬送され、そのときの診察で妊娠を知らされた女性もいました。彼女はその夜、元気な女の子を産みました。父親は分かりません。
インターネットカフェのトイレで出産し、病院に運ばれてきた女性もいました。親からの虐待を受けて育った彼女にとって、「家族」を持つことは大切な夢でした。けれど、親の愛情がどういうものかは、今も分からないのだと言います。数日後、彼女は笑顔を見せることなく、ひとりで病院を後にしました。
当時19歳だった女性は、「お母さん」になりたくて、妊娠を知った後も病院を受診しませんでした。親の猛反対で、中絶をした経験があるからです。年若いカップルにとって、それが唯一の子どもを守る手だてでした。
そのひとつひとつに、私は腹を立てたり、困惑したり、涙したりしてきましたが、なぜ彼女たちがそんな選択をしたのか、本当のところは理解できませんでした。ただ、彼女たちが皆、とても寂しい存在なんだと感じていました。たとえ家族がいても、パートナーがいても、心を分かち合う相手がいません。何より彼女たち自身が、自分の存在を受け入れていないように思えたのです。自分だけを必要とする小さな命は、生きる理由を教えてくれる道しるべだったのかもしれません。
出産に立ち会ったことが縁で、19歳の彼女とは今でも連絡を取り合っています。そのとき生まれた赤ちゃんには、その後小さな弟ができ、しっかりとしたお兄ちゃんの顔になりました。取材を始めたばかりのころ、自分の親と同世代の私に、彼女は警戒心いっぱいでした。その距離がぐっと縮まったように感じたのは、陣痛室で背中をさすっているときのことです。隣のベッドの妊婦さんには、母親の付き添いがありました。母親になろうとしていた彼女が、その瞬間にいちばん欲していたのは、きっと母親だったのです。
「お母さん」は、誰かが代わりをしてあげることができると、私は思います。それは、産みの親と育ての親という限定的な意味合いではなく、性別でもなく、社会として「お母さん」になるということです。見捨てない、突き放さないというメッセージは、「親」のそれと同じではないかと思うからです。まだまだ「お姉さん」も捨て難いけれど・・・。
2016年4月4日(月曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
3年前、私は妊婦さんたちの取材をしていました。出産に至って初めて病院へ来る、あるいは、妊婦健診をほとんど受けないまま出産に臨む女性たち。専門的には未受診妊婦と称されますが、「飛び込み出産」と言った方が馴染みはあるかもしれません。腹痛で救急搬送され、そのときの診察で妊娠を知らされた女性もいました。彼女はその夜、元気な女の子を産みました。父親は分かりません。
インターネットカフェのトイレで出産し、病院に運ばれてきた女性もいました。親からの虐待を受けて育った彼女にとって、「家族」を持つことは大切な夢でした。けれど、親の愛情がどういうものかは、今も分からないのだと言います。数日後、彼女は笑顔を見せることなく、ひとりで病院を後にしました。
当時19歳だった女性は、「お母さん」になりたくて、妊娠を知った後も病院を受診しませんでした。親の猛反対で、中絶をした経験があるからです。年若いカップルにとって、それが唯一の子どもを守る手だてでした。
そのひとつひとつに、私は腹を立てたり、困惑したり、涙したりしてきましたが、なぜ彼女たちがそんな選択をしたのか、本当のところは理解できませんでした。ただ、彼女たちが皆、とても寂しい存在なんだと感じていました。たとえ家族がいても、パートナーがいても、心を分かち合う相手がいません。何より彼女たち自身が、自分の存在を受け入れていないように思えたのです。自分だけを必要とする小さな命は、生きる理由を教えてくれる道しるべだったのかもしれません。
出産に立ち会ったことが縁で、19歳の彼女とは今でも連絡を取り合っています。そのとき生まれた赤ちゃんには、その後小さな弟ができ、しっかりとしたお兄ちゃんの顔になりました。取材を始めたばかりのころ、自分の親と同世代の私に、彼女は警戒心いっぱいでした。その距離がぐっと縮まったように感じたのは、陣痛室で背中をさすっているときのことです。隣のベッドの妊婦さんには、母親の付き添いがありました。母親になろうとしていた彼女が、その瞬間にいちばん欲していたのは、きっと母親だったのです。
「お母さん」は、誰かが代わりをしてあげることができると、私は思います。それは、産みの親と育ての親という限定的な意味合いではなく、性別でもなく、社会として「お母さん」になるということです。見捨てない、突き放さないというメッセージは、「親」のそれと同じではないかと思うからです。まだまだ「お姉さん」も捨て難いけれど・・・。
2016年4月4日(月曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
旅立ちの朝に
私が大学生だったころ、一家でロシアのサンクトペテルブルグを訪れる機会があった。モスクワが東京なら、こちらは京都。しっとりと落ち着いていて、まだナイキもマクドナルドも、この街とは無縁だった。当時、サンクトペテルブルグ市民の自慢は、メトロ(地下鉄)の乗車用コインが金属で出来ているということで、「モスクワは派手なプラスチック製」なのだと度々教えられた。そんな旧都ならではのささやかな対抗意識も、京都人の心をくすぐったのか、2週間ほどの滞在の間に、私はこの街が大好きになった。
旅の醍醐味は皆それぞれ違うだろうけれど、私の場合、その土地ならではの食べものと、人との出会いに尽きる。まぁ、どちらもたまにハズレがあるが、それさえも時が経てば愛しく思えてくるから不思議だ。サンクトペテルブルグの旅で言えば、ジャムでカップが埋まってしまいそうな甘い紅茶と、黒パンが白パンになるほどバターをたっぷり塗ったサンドイッチ、そしてその前に座るウラジーミルさんとガリーナさん夫婦の笑顔だ。
ウラジーミルさんは、几帳面が過ぎるほど真面目な性格で、「エルミタージュ美術館に行ったら、まずこの部屋から見て、次は…」という具合。夕食どきには毎日、小さなグラスで唐辛子入りのウオツカをちびりと呑み、日本の友人に教わったという囲碁を打つ。ガリーナさんは、心も体もおおらかそのもの。エプロンの紐がはちきれそうな体からは、グレタ・ガルボに似ていたという昔の美貌は想像もつかないが、ボルシチやピロシキだけではない、「おうちごはん」の素晴らしさを教えてくれる名シェフだった。体型を気にする年頃だった私には、彼女の「もっと食べてくださ~い」という日本語が恨めしかった。
ロシアのおじいちゃん、おばあちゃんと呼び、その後も長く慕ったこの2人と過ごした時間は、私の人生を変えた出会いのひとつだったと思う。
ぼんやり曖昧だった「あの国」の中に、いきいきとした「あの人」の姿をはっきりと意識するようになった。世界には私の知らないことだらけで、それを知っていく楽しさを宝物のように感じた。
国でも人種でも民族でもなく、ただ目の前にいる相手に、同じ人として向き合う。そんな出会いがきっとこの世界を変えると信じた私は、その広い世界を伝えることを仕事に選んだ。夢のようだけれど、今もそう信じている。
ウラジーミルさんが教えてくれたことのひとつに、「旅立ちの1分間」がある。旅に出る前、家の玄関に座ってただ1分間じっとする。その場所を忘れないように、また戻ってくることができるように祈るのだという。感傷的だが、忘れ物を思い出したりする実用性もあるのがいい。サンクトペテルブルグを離れる朝、みんなで玄関に集まった。言葉はなかったが、温かい気持ちがあふれていた。
2016年2月12日(金曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
旅の醍醐味は皆それぞれ違うだろうけれど、私の場合、その土地ならではの食べものと、人との出会いに尽きる。まぁ、どちらもたまにハズレがあるが、それさえも時が経てば愛しく思えてくるから不思議だ。サンクトペテルブルグの旅で言えば、ジャムでカップが埋まってしまいそうな甘い紅茶と、黒パンが白パンになるほどバターをたっぷり塗ったサンドイッチ、そしてその前に座るウラジーミルさんとガリーナさん夫婦の笑顔だ。
ウラジーミルさんは、几帳面が過ぎるほど真面目な性格で、「エルミタージュ美術館に行ったら、まずこの部屋から見て、次は…」という具合。夕食どきには毎日、小さなグラスで唐辛子入りのウオツカをちびりと呑み、日本の友人に教わったという囲碁を打つ。ガリーナさんは、心も体もおおらかそのもの。エプロンの紐がはちきれそうな体からは、グレタ・ガルボに似ていたという昔の美貌は想像もつかないが、ボルシチやピロシキだけではない、「おうちごはん」の素晴らしさを教えてくれる名シェフだった。体型を気にする年頃だった私には、彼女の「もっと食べてくださ~い」という日本語が恨めしかった。
ロシアのおじいちゃん、おばあちゃんと呼び、その後も長く慕ったこの2人と過ごした時間は、私の人生を変えた出会いのひとつだったと思う。
ぼんやり曖昧だった「あの国」の中に、いきいきとした「あの人」の姿をはっきりと意識するようになった。世界には私の知らないことだらけで、それを知っていく楽しさを宝物のように感じた。
国でも人種でも民族でもなく、ただ目の前にいる相手に、同じ人として向き合う。そんな出会いがきっとこの世界を変えると信じた私は、その広い世界を伝えることを仕事に選んだ。夢のようだけれど、今もそう信じている。
ウラジーミルさんが教えてくれたことのひとつに、「旅立ちの1分間」がある。旅に出る前、家の玄関に座ってただ1分間じっとする。その場所を忘れないように、また戻ってくることができるように祈るのだという。感傷的だが、忘れ物を思い出したりする実用性もあるのがいい。サンクトペテルブルグを離れる朝、みんなで玄関に集まった。言葉はなかったが、温かい気持ちがあふれていた。
2016年2月12日(金曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
ななめへの想像力
詩をひとつ紹介したい。詠み手の男性は旧知の人物で、30代になってアスペルガー症候群と診断された。「まっすぐに生きられないなら」というこの作品には、彼の抱える生きづらさがストレートに詠まれている。
<まっすぐに生きられないなら/ゆがまずに ななめに 生きよう/上も前も見れないならば/首をひねって考えよう/世間の基準に合わなくても/きっと どこかを 認めてくれる/誰もかも 自分ですらも/認められない自分だけど/せめて捨てずに連れて行こう/己の知りうるすべてをつれて>(詩集『里地荒平の世界』より)
普段話す彼は、正直なところややこしい。話題がかみ合ったかと思うと、予想外のディテールにこだわって、話が複雑になったりする。だから、彼がこの詩に込めた思いをじっくり聞いてみたいと願いつつ、一晩では済まなさそうなので、今のところはやめている。いずれにせよ、この詩から何を感じ取るかは人それぞれだろうから、解説ができたとしても野暮な話。私が注目したいのは、詩に詠まれた「ななめ」についてだ。
「まっすぐ」から見ると、「ななめ」は変。でも、「ななめ」から見ると、「まっすぐ」も変。だまし絵のような二つの世界は、結局のところ、どちらが正しいということもない。けれど、これはお互いが「見えて」いるからこそ認識できるのであって、片方だけだと、その存在は消えてしまう。大抵の場合、「まっすぐ」が「ななめ」を見失って。
いま、私たちは「ななめ」への想像力をどれくらい持っているのだろうか。目の前のことだけに夢中になり、ふと目をそらした先に広がる風景を思いやることができないでいる。いつだって、「ななめ」はそばにいるのに。
「ななめ」は他者だ。他者の目から見ようとしない「まっすぐ」は、いつしかゆがむ。見えないふりを続けていると、本当に見えなくなる。 冒頭の詩に戻れば、「ななめ」は、苦しいながらも「まっすぐ」を見つめている。その上で、「ななめ」の世界を生きようとしている。だからこそ彼の言葉は素直に響く。
長年、彼の頭の中にだけあったというこの詩を、文字に起こし、詩集に編んでくれたのが、今は亡きYさんという女性だ。みんなが面倒くさがる彼の話を「面白い、面白い」と聞いていた笑顔が思い出される。Yさんの存在がなければ、詩を発表することはなかっただろうと彼は言う。家族にさえ伝えられなかったもがく心を、彼女の前ではかたちにできた。それはきっと、彼とYさんが、お互いの「ななめ」を思いやることができたからではないだろうか。
人間は、想像するから人間だという。「まっすぐ」な道だけではなく、少し首を傾ければ、すぐ隣には「ななめ」の道もある。この道、しかない世界は寂しくて、息苦しい。
2015年12月9日(水曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
<まっすぐに生きられないなら/ゆがまずに ななめに 生きよう/上も前も見れないならば/首をひねって考えよう/世間の基準に合わなくても/きっと どこかを 認めてくれる/誰もかも 自分ですらも/認められない自分だけど/せめて捨てずに連れて行こう/己の知りうるすべてをつれて>(詩集『里地荒平の世界』より)
普段話す彼は、正直なところややこしい。話題がかみ合ったかと思うと、予想外のディテールにこだわって、話が複雑になったりする。だから、彼がこの詩に込めた思いをじっくり聞いてみたいと願いつつ、一晩では済まなさそうなので、今のところはやめている。いずれにせよ、この詩から何を感じ取るかは人それぞれだろうから、解説ができたとしても野暮な話。私が注目したいのは、詩に詠まれた「ななめ」についてだ。
「まっすぐ」から見ると、「ななめ」は変。でも、「ななめ」から見ると、「まっすぐ」も変。だまし絵のような二つの世界は、結局のところ、どちらが正しいということもない。けれど、これはお互いが「見えて」いるからこそ認識できるのであって、片方だけだと、その存在は消えてしまう。大抵の場合、「まっすぐ」が「ななめ」を見失って。
いま、私たちは「ななめ」への想像力をどれくらい持っているのだろうか。目の前のことだけに夢中になり、ふと目をそらした先に広がる風景を思いやることができないでいる。いつだって、「ななめ」はそばにいるのに。
「ななめ」は他者だ。他者の目から見ようとしない「まっすぐ」は、いつしかゆがむ。見えないふりを続けていると、本当に見えなくなる。 冒頭の詩に戻れば、「ななめ」は、苦しいながらも「まっすぐ」を見つめている。その上で、「ななめ」の世界を生きようとしている。だからこそ彼の言葉は素直に響く。
長年、彼の頭の中にだけあったというこの詩を、文字に起こし、詩集に編んでくれたのが、今は亡きYさんという女性だ。みんなが面倒くさがる彼の話を「面白い、面白い」と聞いていた笑顔が思い出される。Yさんの存在がなければ、詩を発表することはなかっただろうと彼は言う。家族にさえ伝えられなかったもがく心を、彼女の前ではかたちにできた。それはきっと、彼とYさんが、お互いの「ななめ」を思いやることができたからではないだろうか。
人間は、想像するから人間だという。「まっすぐ」な道だけではなく、少し首を傾ければ、すぐ隣には「ななめ」の道もある。この道、しかない世界は寂しくて、息苦しい。
2015年12月9日(水曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
なまけものの森で
タイ北部。チェンマイ県のとある山中に、人口600人に満たない小さな村がある。山岳民カレン族の村だ。村の人々は、自分たちを「パガヨー」と呼ぶ。森とともに生きる者、という意味だそうだ。首にリングを巻くカレン族(自称はカヤン)が有名だが、パガヨーの人々とは分類上も異なる。
このパガヨーの村に、「なまけもの」がいると聞き、知人の案内で訪れた。チェンマイ市内から車で約1時間半。どこに目印があるのか、まるで見当もつかない分かれ道をいくつも過ぎ、ようやく目的地にたどり着いた。竹垣をしつらえた高床式の家が、道の両脇にゆったり並んでいる。ふいに「これ、これ!」と、知人が森の茂みを指さした。サクランボ色をした小さな実がひとつふたつとなっている。コーヒーの木だ。熟れた実を一粒ぱくり。ほんのり甘い。
私が会いたかった「なまけもの」とは、実はこの村でコーヒー作りを担う青年グループのことだ。後発のイメージが強いタイコーヒーだが、意外にも歴史は古く、30年以上も前に栽培が始められていた。かつて、タイ国内で合法だった芥子栽培(アヘンの原料)に代わるものとして、タイ王室や国連の主導で導入された。しかし、同時に入ってきた柿や梨、アボカドなどに比べて実用性に乏しく、ほとんど手つかずのまま野生化していたそうだ。そこから時代を経て、タイにはコーヒーブームが到来、村でもコーヒーを飲む人が増えてきた。そこに注目したのが、流行に敏感な村の若者たちというわけだ。
彼らは数年かけて、同じような条件でコーヒーを栽培する山岳部の村々を訪ね、苗の栽培方法から収穫のタイミング、精製や焙煎に至るまで試行錯誤を重ねてきた。そしてようやく自分たちの納得のいくコーヒーが出来上がり、一気に販路拡大へ・・・と思いきや、今まで通り、米を作り、野菜を育てているのだという。自給自足の生活をする彼らにとって、「貴重」な現金収入であるはずのコーヒー栽培なのに・・・。答えるかわりに、青年グループのリーダーは村のコーヒー畑へ行こうと言った。山道を歩くこと1時間。「はい着きましたよ」。え?ここ?生い茂る森の緑にもう一度目をやる。あっ!さっき見た赤い実がぽつぽつと顔をのぞかせている。そこは雑木林ならぬ雑木畑。収穫を終えたばかりだったとはいえ、南米のコーヒー農園のイメージはあっけなく崩れ去った。畑に必要な水や栄養は、森が何百年とかけて育み蓄えたものだ。
「森は人間のものではありません。人間が森の一部なんです」。だから・・・と彼は続ける。「僕らはなまけものでいようと決めたんです」。森を拓き、稲作をやめ、コーヒーを売り、米を買う。そのおかしさを、自然を守るという上から目線や、貨幣経済を最良とする「文明」社会への批判では語らない。なぜコーヒーを作り続けるの?「村のコーヒーは美味しいでしょう?その理由を知ってほしいからです」。なまけものたちのコーヒーはラパト(偉大なる山)と名付けられている。
2015年10月16日(金曜日)京都新聞 夕刊
店主一。
このパガヨーの村に、「なまけもの」がいると聞き、知人の案内で訪れた。チェンマイ市内から車で約1時間半。どこに目印があるのか、まるで見当もつかない分かれ道をいくつも過ぎ、ようやく目的地にたどり着いた。竹垣をしつらえた高床式の家が、道の両脇にゆったり並んでいる。ふいに「これ、これ!」と、知人が森の茂みを指さした。サクランボ色をした小さな実がひとつふたつとなっている。コーヒーの木だ。熟れた実を一粒ぱくり。ほんのり甘い。
私が会いたかった「なまけもの」とは、実はこの村でコーヒー作りを担う青年グループのことだ。後発のイメージが強いタイコーヒーだが、意外にも歴史は古く、30年以上も前に栽培が始められていた。かつて、タイ国内で合法だった芥子栽培(アヘンの原料)に代わるものとして、タイ王室や国連の主導で導入された。しかし、同時に入ってきた柿や梨、アボカドなどに比べて実用性に乏しく、ほとんど手つかずのまま野生化していたそうだ。そこから時代を経て、タイにはコーヒーブームが到来、村でもコーヒーを飲む人が増えてきた。そこに注目したのが、流行に敏感な村の若者たちというわけだ。
彼らは数年かけて、同じような条件でコーヒーを栽培する山岳部の村々を訪ね、苗の栽培方法から収穫のタイミング、精製や焙煎に至るまで試行錯誤を重ねてきた。そしてようやく自分たちの納得のいくコーヒーが出来上がり、一気に販路拡大へ・・・と思いきや、今まで通り、米を作り、野菜を育てているのだという。自給自足の生活をする彼らにとって、「貴重」な現金収入であるはずのコーヒー栽培なのに・・・。答えるかわりに、青年グループのリーダーは村のコーヒー畑へ行こうと言った。山道を歩くこと1時間。「はい着きましたよ」。え?ここ?生い茂る森の緑にもう一度目をやる。あっ!さっき見た赤い実がぽつぽつと顔をのぞかせている。そこは雑木林ならぬ雑木畑。収穫を終えたばかりだったとはいえ、南米のコーヒー農園のイメージはあっけなく崩れ去った。畑に必要な水や栄養は、森が何百年とかけて育み蓄えたものだ。
「森は人間のものではありません。人間が森の一部なんです」。だから・・・と彼は続ける。「僕らはなまけものでいようと決めたんです」。森を拓き、稲作をやめ、コーヒーを売り、米を買う。そのおかしさを、自然を守るという上から目線や、貨幣経済を最良とする「文明」社会への批判では語らない。なぜコーヒーを作り続けるの?「村のコーヒーは美味しいでしょう?その理由を知ってほしいからです」。なまけものたちのコーヒーはラパト(偉大なる山)と名付けられている。
2015年10月16日(金曜日)京都新聞 夕刊
店主一。