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旅立ちの朝に

 私が大学生だったころ、一家でロシアのサンクトペテルブルグを訪れる機会があった。モスクワが東京なら、こちらは京都。しっとりと落ち着いていて、まだナイキもマクドナルドも、この街とは無縁だった。当時、サンクトペテルブルグ市民の自慢は、メトロ(地下鉄)の乗車用コインが金属で出来ているということで、「モスクワは派手なプラスチック製」なのだと度々教えられた。そんな旧都ならではのささやかな対抗意識も、京都人の心をくすぐったのか、2週間ほどの滞在の間に、私はこの街が大好きになった。

 旅の醍醐味は皆それぞれ違うだろうけれど、私の場合、その土地ならではの食べものと、人との出会いに尽きる。まぁ、どちらもたまにハズレがあるが、それさえも時が経てば愛しく思えてくるから不思議だ。サンクトペテルブルグの旅で言えば、ジャムでカップが埋まってしまいそうな甘い紅茶と、黒パンが白パンになるほどバターをたっぷり塗ったサンドイッチ、そしてその前に座るウラジーミルさんとガリーナさん夫婦の笑顔だ。

 ウラジーミルさんは、几帳面が過ぎるほど真面目な性格で、「エルミタージュ美術館に行ったら、まずこの部屋から見て、次は…」という具合。夕食どきには毎日、小さなグラスで唐辛子入りのウオツカをちびりと呑み、日本の友人に教わったという囲碁を打つ。ガリーナさんは、心も体もおおらかそのもの。エプロンの紐がはちきれそうな体からは、グレタ・ガルボに似ていたという昔の美貌は想像もつかないが、ボルシチやピロシキだけではない、「おうちごはん」の素晴らしさを教えてくれる名シェフだった。体型を気にする年頃だった私には、彼女の「もっと食べてくださ~い」という日本語が恨めしかった。

 ロシアのおじいちゃん、おばあちゃんと呼び、その後も長く慕ったこの2人と過ごした時間は、私の人生を変えた出会いのひとつだったと思う。

 ぼんやり曖昧だった「あの国」の中に、いきいきとした「あの人」の姿をはっきりと意識するようになった。世界には私の知らないことだらけで、それを知っていく楽しさを宝物のように感じた。

 国でも人種でも民族でもなく、ただ目の前にいる相手に、同じ人として向き合う。そんな出会いがきっとこの世界を変えると信じた私は、その広い世界を伝えることを仕事に選んだ。夢のようだけれど、今もそう信じている。

 ウラジーミルさんが教えてくれたことのひとつに、「旅立ちの1分間」がある。旅に出る前、家の玄関に座ってただ1分間じっとする。その場所を忘れないように、また戻ってくることができるように祈るのだという。感傷的だが、忘れ物を思い出したりする実用性もあるのがいい。サンクトペテルブルグを離れる朝、みんなで玄関に集まった。言葉はなかったが、温かい気持ちがあふれていた。




                                     2016年2月12日(金曜日)京都新聞 夕刊




店主一。
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泣けます。

ステキなおはなしです。わたしもサンクトペテルブルグにいきたくなりました。。。

Re: 泣けます。

MISOさん
ありがとうございます。
あの頃とだいぶ変わっているかもしれませんが、とても素敵な街ですよ。
ぜひ、次回の旅先に♪
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Author:mue*lek
ムーレック“のんびり、ちょっぴり、世界とつながる”をコンセプトに、アジアを主とする世界の子ども支援を目的とした、町屋スタイルのカフェ&雑貨ショップです。

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